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【「8.15」の落とし穴 悲しみの前には熱狂があった】日経新聞の論考の『落とし穴』

2019年8月15日(木)

 日本経済新聞の重要な視点と、その視点の欠陥!

「8.15」の落とし穴 悲しみの前には熱狂があった
日本経済新聞:論説委員会 大島三緒 - 2019年8月15日


➡ この論考は、戦争に熱狂した文化人や国民にも非があることを
強調して「なんと熱狂しやすい国民性だろう」と警鐘を発している
つもりなのだとは思いますが、皇国民教育と報道の統制そして
報道機関などの戦争協力キャンペーンが国民思想を洗脳したことを
捨象しているように見えます。
(論考の中では林芙美子や高村光太郎を批判しています)

結論的部分で【熱狂の代償の大きさを思わざるを得ない】と書き、
戦争の代償が庶民の熱狂の結果であるかのように描いています。

熱狂させた大本営発表とそれを垂れ流したマスメディアの責任は
最も大きいと言わなければなりません。

そして、それは現在も重要な反省点です。

 現在も政府主導の「非道な韓国キャンペーン」に報道が
協力する中で、国民も相当程度引き込まれている点には
注意する必要があることも、また確かであると思います。

     *****************

「8.15」の落とし穴 悲しみの前には熱狂があった
日本経済新聞:論説委員会 大島三緒 - 2019年8月15日

(長い論考から一部引用:順不同)
庶民も文化人も、熱に浮かされていたといえばそれまでだが、
なんと熱狂しやすい国民性だろう。

もちろん、それをあおったメディアの責任もきわめて大きい。

Nikkei_20190815-01.jpg
    戦果を報じた中外商業新報(現在の日本経済新聞)

前線と銃後それぞれの、おびただしい数の「美談」が紹介され、
人々は物語に酔ったのである。

ほとんどの国民が大本営発表に浮き立ち、勝った勝ったと興奮した。

こんな日常のなかで、戦争は泥沼化していった。
戦争とはある日突然始まるのではなく、
日常と重なりつつ進んでいくものだということがわかる。

そして、やがて迎えた「8.15」。

こちらののぞき窓から眺める戦争は、ただただ悲しい。
「暴支膺懲」の熱狂から8年、無一物となった日本人は
ようやく正気に戻るのである。

熱狂の代償の大きさを思わざるを得ない。

Nikkei_20190815-02.jpg
  日本経済新聞 - 2019年8月15日付けより




     *****************

「8.15」の落とし穴 悲しみの前には熱狂があった
日本経済新聞:論説委員会 大島三緒 - 2019年8月15日

8月は「戦争」がメディアにあふれる季節である。いわゆる「8月ジャーナリズム」だが、あの惨禍と過ちを記憶する記号として、やはり「8.15」の意味は大きい。令和の時代にも、決してゆるがせにはできぬ日付だ。

もっとも、そこには落とし穴もある。この日付だけで戦争を振り返ると、軍部や政治家が暴走して続けた戦争に、多くの日本人が「巻き込まれた」という被害者イメージが強まるのである。

前線での玉砕と餓死。本土空襲。沖縄戦。原爆投下。人々は戦争に疲れ果て、食糧を求め、死におびえた……。太平洋戦争末期は、たしかに国民は過酷な運命に従うほかなかっただろう。

しかし、前史を忘れてはいけない。別ののぞき窓から戦争を眺めるとき、相貌は大きく異なるのだ。たとえば、37年に日中戦争が起きた当時はどうだっただろう。

北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突したのは7月7日。戦火は上海にも移り、本格的な戦争が始まった。政府は8月15日に「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」声明を出す。暴虐な中国を懲らしめるという意味だ。のちの敗戦の8年前の「8.15」である。

このときの世論の沸騰ぶりはただならぬものだった。

「もはや躊躇(ちゅうちょ)する猶予なしに徹底的にガンとやってもらうことです」「徹底的に支那軍を膺懲の要あり」「この際、行くところまで行ってもらわぬと困る」「皇軍の精鋭よ、徹底的に東亜の禍根を一掃せられよ」

文芸春秋社が発行していた雑誌「話」の同年10月号の記事「日支事変に際し政府に望む」に並んだ読者の声である。「膺懲」という言葉が世に躍り、さかんに国民大会が開かれ、戦勝の報が届くたびに提灯行列が街を埋めた。

文化人も積極的に戦争に加わっている。例を挙げれば林芙美子の従軍記「戦線」は、歌い上げるような戦争礼賛ぶりだ。かつての「放浪記」の作家は時局に大いに感じ入って従軍し、中国の国民政府が逃れていた新首都、漢口への「一番乗り」をやってのけた。

「戦線は美しい」と芙美子は称揚する。敵兵を「堂々たる一刀のもとに」斬り殺す場面にも「こんなことは少しも残酷なことだとは思いません」とつづる。従軍は朝日新聞社が全面的にバックアップ、芙美子は帰国するや講演に飛び回った。大ベストセラーになった「戦線」は戦後、封印された。

庶民も文化人も、熱に浮かされていたといえばそれまでだが、なんと熱狂しやすい国民性だろう。もちろん、それをあおったメディアの責任もきわめて大きい。前線と銃後それぞれの、おびただしい数の「美談」が紹介され、人々は物語に酔ったのである。

この当時は戦時体制下とはいえ、物資はまだ十分に出回り、大衆娯楽も息づいていた。

「街には『露営の歌』だの『上海だより』だの軍歌調の歌謡がながれていたが、同時に『忘れちゃイヤよ』だの、『とんがらかっちゃダメよ』だのという歌も決してすたれたわけではなかった」。安岡章太郎は「僕の昭和史」でこう回想している。

実際に、漢口が陥落した38年秋の雑誌をひもといてみても、消費を楽しむムードは消えていない。旅行雑誌「旅」の同年11月号には「旅は満州へ」「台湾へ」と読者をいざなう広告が載り、洋酒「ジョニー・オーカー」や「さくらフヰルム」が宣伝に努めている。

こんな日常のなかで、戦争は泥沼化していった。戦争とはある日突然始まるのではなく、日常と重なりつつ進んでいくものだということがわかる。行きづまりを打開しようと日本は対米英戦に突入し、またも世間は大いに留飲を下げるのである。

「この日世界の歴史あらたまる。/アングロサクソンの主権、/この日東亜の陸と海とに否定さる」。開戦を知り、高村光太郎が残した詩だ。ほとんどの国民が大本営発表に浮き立ち、勝った勝ったと興奮した。

そして、やがて迎えた「8.15」。こちらののぞき窓から眺める戦争は、ただただ悲しい。「暴支膺懲」の熱狂から8年、無一物となった日本人はようやく正気に戻るのである。熱狂の代償の大きさを思わざるを得ない。

当時も、冷静な人はいた。日中戦争勃発時の外務省東亜局長、石射猪太郎は「暴支膺懲」声明について、「独りよがりの声明。日本人以外には誰も尤(もっと)もと云ふものはあるまい」と日記に書きとめた。近衛文麿首相を指していわく「彼は日本をどこへ持つて行くと云ふのか。アキレ果てた非常時首相だ。彼はダメダ」。

熱狂と歓呼は、しかし、そういう思いを押し流していった。さまざまなのぞき窓から歴史を眺めることで、教訓を深く胸に刻まなければならない。




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テーマ:戦争・原爆 - ジャンル:政治・経済

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