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JUNSKY blog 2018

政治関連・社会問題などについて書いてゆきます!

平和のための戦争展・最終日 語り部の集い

2018年8月26日(日)

アクロス福岡 二階 交流フロアで今日まで開催の
【平和のための戦争展 2018】も今日が最終日。

戦争体験者お二人のお話がありました。

以下、iPad タブレットダイレクト入力したものを
以下に引用しますが、お話の極一部でしかありません。


10時30分開始

立石さん 大野城市より

配布資料あり

1941年 の時点で八幡市の國民学校四年生。
綴り方で、12月8日の開戦を喜ぶ文を書き10点満点を貰うような
軍国少年であった。

六年生の時は先生の指示で「不自由を常と思えば不足なし」と書いた。

1944年6月16日北九州大空襲。
日本で初めてB29による空襲だった。
久留米の祖父宅に疎開。

1945年6月16日、久留米大空襲。
八幡に続いて久留米でも大空襲に遭遇する羽目に。

8月15日戦争が終わって八幡に戻って見たが壊滅状態。

(当時の母親の苦労を語る時、今も涙する)

母は食糧管理法違反で逮捕されたが子ども達には伝えられず、
「何故、母が帰って来ないのか」と不安の一夜。

辛い日々が続き、自殺も考えたが実行できなかった。

1949年11月に18歳で福岡高裁に入所。
その場で全司法労組に加入。
以後、45年間全司法の中で多くを学び、活動した。

戦争は人間が引き起こすもの。
戦争に反対し、平和を願う人間の一人ひとりの声と、
そのための努力を結集することによって
戦争のない平和な世界は実現できることを、
私は信じています。
立石



川添久子 中国残留孤児の1人。

二回も言葉の壁を乗り越えなければならないのでしょうか?

私は日本人で佐賀県生まれ。


家族はハルビンに開拓団として入植し
黒竜江省で生活。

父も昭和20年8月9日、ソ連参戦とか全く知らなかったが、
朝から晩まで空襲が続いた。

岷江の背後にあった原始林に避難し、逃げた。

母は、「塩を持って来なかった」と後悔し、
今度またこのような時があったら塩を忘れないように言った。
私は、またこのようなことは嫌よ!

ソ連兵に遭遇し収容所に入れられた。
母は、其処で妹を産んで亡くなった。

冬はマイナス40度にもなるが暖房も寝具も無い。

父は元勤めて居たハルビン の郵便局を頼って行くと、
お世話をして貰えた。

父は、お金を作るために飲まず食わずで働きづめで
10月10日に亡くなった。

その日から私は孤児になりました。

父は亡くなる 直前友人の中国人に私のことを頼んで居た。

その夜、5人ほどの中国人が来て助けてくれた。

養父は、単身赴任でハルビンに来て居た。
男で1つで私を育ててくれた。
養父は日本語ができたので家に中では日本語で話して居たが、
養父は学校に行って中国語の勉強が始まった。
その時、私は9歳。
商店街に行って解らない漢字をメモして来て養父に教えて貰った。

養父は私に辞書と小説を買ってくれ、それを勉強した。

1949年に新中国が誕生し、夜間学校に通った。

ある日、日本人であることを知られイジメられた。

1951年、養父の故郷に帰った。
その時、初めて養母に会った。

養母を「お母さん」と呼べないことを父は怒った。

私がお前の命を救ったのは、私たちの老後を見てもらうためでは無い。
お前が成長して社会の役に立つ人間になると考えたからだ、
と言いました。

養母が雪まみれになって私を迎えに来てくれたのを見て
「ママ、ママ、ママ!」と叫びました。

全科目優秀で卒業できました。
19歳で、教師になりました。

多くの生徒は貧しく靴も靴下も無い子ども達。

1961年、山東省は教師のレベル向上のため教師研修学校を設けたので、
応募し合格。四年間勉強した。

1964年の文化大革命の犠牲になり、夫は農村に下放。

人民代表大会副委員長になりました。三期続けた。

48年間帰国を待って居た。
日本の戸籍は戦時死亡となって居た。

佐賀県に身元保証人を募集してくださいとお願いしたら
佐賀県基山の森山さんと言う方が娘同様に扱ってくれた。
森山さん亡くなった娘さんが私と同い年だった。

帰国して一年後、孫の学校の教材を見た。

再研修生を募集と言う話があり、応募した。
61歳の私が若い人々と一緒に日本語の勉強。
日本語は中国語より壁が高い!

2年間の再研修学校での勉強で大幅に向上した。

日本語のレベルが上がるにつれて交流も増えて来た。

日中友好協会にも参加した。

18人の残留孤児が体験記を書き、本に成りました。

最初は中国語で出版。
その後、日本語版も2500部作成し直ぐに売り切れ500部増刷。

中国には『笑ったら若くなる』と言う諺がある。
しかし、笑えない人もいる。
残留夫人たちは帰国できず中国で家族と生活している。

国民年金は2万円も無い。

二世の生活はもっと大変。

日本の壁は もっと高くて死ぬまで挑み続けなければならない。

今85歳だが、75年のことを30分くらいで話すのは難しい。



以下の写真は今日の語り部のお話とは関係ありません。
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福島第一原発の放射性物質による発癌傾向を示すパネル
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テーマ:軍事・安全保障・国防・戦争 - ジャンル:政治・経済

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