JUNSKY blog 2017

政治関連・社会問題などについて書いてゆきます!

「近衛上奏文」を起草したのは吉田茂だった! ; 保阪正康

2017年9月14日(木)

 昭和天皇の足跡など昭和史研究の第一人者のひとりである
保阪正康さんがサンデー毎日に寄稿した記事。

 興味深いので、一部(でも結構長い!)引用して御紹介!

一語一会・私が出会った「昭和の怪物」
 娘・麻生和子が見た吉田茂の戦後史/2=保阪正康

 2017年9月14日 - Texts by サンデー毎日
 

 敗戦後の占領期に、吉田茂が首相であったことは歴史的には僥倖(ぎょうこう)というべきだったのではないか。なにしろ吉田は、昭和十年代の軍事主導体制に徹底して反対していたために、戦後の日本社会から旧陸海軍の肌合いを消すための強い意欲を持っていた。その点について、麻生和子は私のインタビューで幾つかの例を引きながら、具体的に説明してくれた。
  (中略)
「とくに三国同盟には反対でした。それで陸軍からは目の仇(かたき)にされていました。ただ駐在武官の軍人の方(保阪注・辰巳栄一)は、彼のそのような気持ちを理解したと聞いていますよ」
  (中略)
  陸軍の憲兵隊の隊員と謀略部門を担当する陸軍省兵務局の情報工作員が、身分を偽って吉田のもとに接近し、大磯の私邸には女中と書生という立場で入りこみ、それぞれ互いの存在を知らずに吉田の監視を続けていたのである。こうした陸軍の監視機構の秘密文書では、吉田は「吉田反戦グループ」の中心人物と見られ、「ヨハンセン」という符丁で呼ばれていた。つけ加えておけば、吉田と日常的に接していた近衛は、これらの機構では「コーゲン」とされていた。とくに陸軍側はヨハンセンとコーゲンは、「二大反戦分子」として目の仇にしていたのである。

和平行動に目を光らせる陸軍

  (中略)
  吉田の思想を歴史上に位置づけるのは、この立脚点を確認しておくことがもっとも重要だったのである。

 あえてその二つの例を語っておくことにしたい。

 そのひとつは、昭和十七年三月のころなのだが、日本中がシンガポール陥落で沸きたっているときに、吉田は近衛や池田、宇垣一成らと大胆に和平交渉を話し合っている。そして吉田は近衛に外交官出身らしい提案を行っている。
  (中略)
 吉田の意見は、近衛に「ジュネーブに行って静養していろ、そうするとさまざまな国、関係機関があなたに近づいてくるだろうから、それを和平のきっかけにしたらどうか」と言うのであった。(引用者注:実現しなかったようだ)

 もう一例は、昭和二十年二月に、天皇が個別に重臣たちに会い、和平の方向を模索しようと考えたときである。七日の平沼騏一郎を最初に若槻礼次郎、岡田啓介らと会っていき、二十六日に東條英機に会うまでにつごう七人の重臣が天皇と会見し、自説を述べた。天皇は軍事的敗北を一定の範囲でとどめるために、重臣から和平への道筋を聞こうとしたのである。七人の重臣のひとりとして、近衛が天皇と会見したのは十四日であった。ここで近衛は、一刻も早く終戦工作を行うべきであるとの持論を述べたあとに、他の誰もが行わなかった上奏文を天皇に手渡したのである。まったく稀有(けう)のことだった。
  (中略)
 上奏文は全文約三千字から成り、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まり、前半部は世界情勢を分析したうえで、「つらつら思うにわが国内外の情勢は、今や共産革命に向って急速度に進行しつつあり」と書いている。敗戦イコール共産革命の危機がヨーロッパにはみられるとあった。近衛の国際情勢認識だけではとうてい書けない史実が並んでいた。

「陸軍部内には共産主義者が多いのか」

 次いで後半部に移り、そこには衝撃的な内容があった。日本国内には共産主義勢力がいかにはびこっているか、それを具体的に記述しているのである。共産主義勢力を報告しているわけではないのだが、軍内は共産主義者の温床になっていると指摘し、次のように書かれていた。
  (中略)
 実際には上奏文は吉田が書き、近衛は翌朝に目が覚めてこの内容に納得したというのが真実の姿だった(近衛が周辺の者に語っていたという)。つまり吉田は、近衛上奏文を通じて天皇に対して「敗戦を受け入れてほしい」と詰めよったといってよかった。私の率直な感想をいえば、共産主義の脅威を通じての、直截な回答を天皇に求めたともいえるように思えるのであった。







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以下、配信記事全文

一語一会・私が出会った「昭和の怪物」
 娘・麻生和子が見た吉田茂の戦後史/2=保阪正康

 2017年9月14日 - Texts by サンデー毎日


「近衛上奏文」を起草したのは吉田茂だった!
昭和天皇に即時敗戦受け入れを求める
和平グループを追いつめる“吉田逮捕劇”の真相
 

 昭和という時代に存在を刻んだ「怪物」たちに、現代史研究の第一人者が思いを込めて綴(つづ)るメモワール。大宰相と言われた吉田茂は、どのように戦時下を生きたか。外務省の長老的立場にあって和平工作にかかわり、天皇に即時停戦を訴える「近衛上奏文」を起草した、吉田の闘い-。(一部敬称略)

 敗戦後の占領期に、吉田茂が首相であったことは歴史的には僥倖(ぎょうこう)というべきだったのではないか。なにしろ吉田は、昭和十年代の軍事主導体制に徹底して反対していたために、戦後の日本社会から旧陸海軍の肌合いを消すための強い意欲を持っていた。その点について、麻生和子は私のインタビューで幾つかの例を引きながら、具体的に説明してくれた。

 そのような会話を以下に紹介しておかなければならない。

「彼(吉田)は昭和十四(一九三九)年ごろまでは駐英大使をしていましたね。もうこのころは軍人が前面に出ている時代でしたから、ずいぶん苦労しています。たとえば本省からは陸軍の圧力もあって、彼のもとには充分な交際費や機密費も送ってこなかったのです。そのために大使としてのパーティーは私費を使って開いていたほどです」

「とくに三国同盟には反対でした。それで陸軍からは目の仇(かたき)にされていました。ただ駐在武官の軍人の方(保阪注・辰巳栄一)は、彼のそのような気持ちを理解したと聞いていますよ」

「占領期にマッカーサーという軍人と彼とが気が合ったことは、日本にとって非常によかったと思います。それが占領政策を円滑に進める因になったと私は考えています」

 東京・渋谷の私邸で、当時(一九九〇年)七十五歳だった麻生は、滑舌のはっきりした口調で、往時を偲(しの)んだ。つまるところ吉田の反軍部の姿勢が明確なのは、昭和十六年十二月からの太平洋戦争をふり返っても、すぐに幾つかの動きを指摘できる。そのような事実を指摘するとき、麻生は大筋で認めてくれた。戦時下では、麻生は実業家夫人として子供の養育にあたっていたため政治の動きには間接的にしか関わっていないようであった。

 吉田は戦時下では、外務省の長老の立場にいたのであったが、公職にはつかず、大磯と東京・永田町にある私邸を行ったり来たりしながら過ごしていた。大磯には元老西園寺公望の秘書だった原田熊雄や華族の樺山愛輔、三井の池田成彬(しげあき)、さらには久原房之助などの有力者が住んでいて、吉田はしばしばそのような人たちと戦争終結をどのように進めていくかを密(ひそ)かに語り合っている。さらに永田町の自宅には近衛文麿をはじめとして、軍事体制に不信を持つ要人が訪れて情報交換を続けていた。

 陸軍の憲兵隊の隊員と謀略部門を担当する陸軍省兵務局の情報工作員が、身分を偽って吉田のもとに接近し、大磯の私邸には女中と書生という立場で入りこみ、それぞれ互いの存在を知らずに吉田の監視を続けていたのである。こうした陸軍の監視機構の秘密文書では、吉田は「吉田反戦グループ」の中心人物と見られ、「ヨハンセン」という符丁で呼ばれていた。つけ加えておけば、吉田と日常的に接していた近衛は、これらの機構では「コーゲン」とされていた。とくに陸軍側はヨハンセンとコーゲンは、「二大反戦分子」として目の仇にしていたのである。

和平行動に目を光らせる陸軍
 たまたま私は、吉田の家に入りこんでいた書生(東輝次と名のる陸軍中野学校出身の情報工作員)の遺族から、このときの手記を入手していたので、吉田がどのように監視されていたかを知っていた。麻生はそうした内幕話に思いあたることがあるとも語っていたのが、私には印象的であった。こうした史料を改めて整理し、そして関連の記録文書を読んで理解できることは、太平洋戦争の戦時下に吉田は、歴史に残る講和工作を行っているとの事実であった。つまり吉田は、戦後政治の立脚点になる思想や哲学をすでに戦時下で歴史の年譜に刻んでいるといえたのだ。

 吉田の思想を歴史上に位置づけるのは、この立脚点を確認しておくことがもっとも重要だったのである。

 あえてその二つの例を語っておくことにしたい。

 そのひとつは、昭和十七年三月のころなのだが、日本中がシンガポール陥落で沸きたっているときに、吉田は近衛や池田、宇垣一成らと大胆に和平交渉を話し合っている。そして吉田は近衛に外交官出身らしい提案を行っている。

「皇室に最も近い公(保阪注・近衛のこと)がスイスに出かけ、漫然と滞在しているだけでも、欧州各国の注意を引くべく、英国の戦況利あらざれば、公に働きかけるものあるべく、ドイツの苦戦となれば、また公に接近を試みるものがあるであろう」

 吉田の意見は、近衛に「ジュネーブに行って静養していろ、そうするとさまざまな国、関係機関があなたに近づいてくるだろうから、それを和平のきっかけにしたらどうか」と言うのであった。近衛も乗り気になった。そこで内大臣の木戸幸一を通じて天皇に伝えようとなった。しかしこれは、結局沙汰やみになる。真相は明確ではないが、木戸が天皇に伝えなかったというのがその理由らしい。しかしともかく吉田の意思は、明確に歴史に刻まれた。

 陸軍側がこうした動きを察知し、改めてヨハンセンに注目し、その和平行動に目を光らせることになったのである。

 もう一例は、昭和二十年二月に、天皇が個別に重臣たちに会い、和平の方向を模索しようと考えたときである。七日の平沼騏一郎を最初に若槻礼次郎、岡田啓介らと会っていき、二十六日に東條英機に会うまでにつごう七人の重臣が天皇と会見し、自説を述べた。天皇は軍事的敗北を一定の範囲でとどめるために、重臣から和平への道筋を聞こうとしたのである。七人の重臣のひとりとして、近衛が天皇と会見したのは十四日であった。ここで近衛は、一刻も早く終戦工作を行うべきであるとの持論を述べたあとに、他の誰もが行わなかった上奏文を天皇に手渡したのである。まったく稀有(けう)のことだった。

「陸軍部内には共産主義者が多いのか」
 この近衛上奏文は、太平洋戦争を語るときの重臣の意思のひとつとして、その後も歴史の中で語られることになる。それほど意味するところは大きかった。上奏文は全文約三千字から成り、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まり、前半部は世界情勢を分析したうえで、「つらつら思うにわが国内外の情勢は、今や共産革命に向って急速度に進行しつつあり」と書いている。敗戦イコール共産革命の危機がヨーロッパにはみられるとあった。近衛の国際情勢認識だけではとうてい書けない史実が並んでいた。

 次いで後半部に移り、そこには衝撃的な内容があった。日本国内には共産主義勢力がいかにはびこっているか、それを具体的に記述しているのである。共産主義勢力を報告しているわけではないのだが、軍内は共産主義者の温床になっていると指摘し、次のように書かれていた。

「職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、其の多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり。只彼等は軍隊教育に於て、国体観念だけは徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て、彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候」

 一億玉砕を叫ぶ者は、国内を混乱に陥れて、革命を起こそうとしているとまで断定している。確かにすべての動きを共産主義と結びつけている点は、「まことにグロテスクな文書」と猪木正道は喝破しているのだが、それはあたっているといえるだろう。しかし、近衛上奏文は、このまま敗戦に至ると共産革命が起こりますよ、皇室の安泰はどうなりましょうか、それでもいいのですかと怒っていることがわかってくる。もっと皮肉な言い方をすれば、共産革命が起こらないうちに、一刻も早く終戦を迎えたほうがいい、と説いているのだ。

 さてここで昭和史は貴重な問いを今に発している。本当にこれは近衛が書いたのか。近衛はここまでの状況認識を持っていたのか。いずれも疑問なのである。これは私の知る限り、昭和史を検証している者の間では、「吉田が書いた」とみるほうが妥当性があるとして一致している。事実の経過を追うと、それがわかってくる。

 二月十三日の夜遅く、東京・永田町の吉田の私邸にこっそりと近衛が訪ねてくる。翌日に近衛は天皇に会うことになっている。吉田に上奏文の内容について相談しているのである。吉田は戦後になって自らの回想記(『回想十年』)に次のように書く。近衛が敗戦イコール共産革命といった認識を持っていることに全面的に共感したというのである。

「私は公のこれら意見には全く賛成であったので、二人して内奏文の補校に努めるとともに、私はその写しをとり、夜の更(ふ)けるまで語りあった。私が写しをとったのは、これを牧野伯に見せて欲しいという公の希望に従ったものであるが、これが憲兵隊に捕われる証拠品の一つになろうとは、夢にも考えなかった」

 吉田は遠慮深げに書いているが、実際には上奏文は吉田が書き、近衛は翌朝に目が覚めてこの内容に納得したというのが真実の姿だった(近衛が周辺の者に語っていたという)。つまり吉田は、近衛上奏文を通じて天皇に対して「敗戦を受け入れてほしい」と詰めよったといってよかった。私の率直な感想をいえば、共産主義の脅威を通じての、直截な回答を天皇に求めたともいえるように思えるのであった。

 この上奏文は、吉田のもとに入りこんでいる工作員によって全文が写しとられ、陸軍の首脳部が目を通した節があった。参謀総長の梅津美治郎は、天皇から「陸軍部内に共産主義者が多いのか」と問われ困惑している。その分だけ陸軍首脳部は、近衛は天皇に何を伝えたのか、その背後にいる吉田茂はどんな戦略を練っているのか、疑心暗鬼だったのだろう。憲兵隊が、吉田が流言飛語を撤(ま)いているとの名目で逮捕したのは、この年の四月十五日であった。

 実際は和平工作グループともいうべき、ヨハンセングループを一気に追いつめようと計画したのである。

「自らの信念を崩しませんでした」
 吉田が大磯で逮捕された日の描写は、前述の中野学校出身で吉田家に書生として入りこんだ工作員による手記に詳しい。この工作員はこの逮捕を知らなかった。憲兵隊筋からの逮捕だったからである。吉田はこの日から、五月二日までは憲兵隊で取り調べを受けている。おまえはアメリカと和平工作を考えているだろう、駐日大使だったグルーとは太平洋戦争開戦後にかかわらず連絡をとっているではないか、という難癖であった。吉田はそうした取り調べを一切否定している。あなたたちはあまりにも牽強付会だとはねつけている。その間に、吉田を逮捕するとは何ごとか、と外務大臣の東郷茂徳や宮内省の側から激しく突きあげがあり、陸軍大臣の阿南惟幾は閣議でも抗議を受けて孤立している。結局、吉田は五月二十五日まで監房に閉じこめられていたが、該当する罪名はないとして釈放になっている。

 大磯の吉田邸の書生になっていた工作員は、ヨハンセンがいきなり帰ってきたので驚いたと書き残す。そして「(ヨハンセンを見て)余は内心吃驚(びっく)りした。何の連絡もないのである。(略)何故釈放したんだ。こんなに早く釈放するくらいなれば、俺がこんな生活をする必要がなかったではないか。余は口惜しかった」とある。それでも「御感想はいかがですか」と吉田に尋ねると、「いや、人間一生に一度は入って見てみるのもよい処だよ」と笑ったと書いている。

 吉田のこの投獄体験は、GHQの占領政策のもとでは勲章でもあった。これほど軍に抵抗したのだから、この男はわれわれの味方になりうると、GHQのG2(参謀第二部)のウィロビーなどには信頼されたのである。むろん近代日本の歴史上にあっても、吉田はこれを勲章として利用している。吉田の周辺の人びとは、こういうときの吉田の肚(はら)の据わった態度には尊敬の念を抱いている。

 なにより麻生和子も、「戦時下の彼は、微動だにしませんでした。自らの信念を崩しませんでした」と賛(たた)えている。工作員の東輝次の手記には、戦後に自らがスパイだったと告げると吉田は、「お互い、お国のためと思ってやったんだからいいよ。当時は君が勝ったけれど、今はわたしが勝ったね」と笑ったという。そして自衛隊入隊の保証人になったというのである。(以下次号)

(ノンフィクション作家・評論家)

(サンデー毎日9月24日号から)




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