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明仁天皇は、既に2010年に退位の意向を宮内庁に伝えていた!

2016年12月28日(水)

毎日新聞が天皇の「国民の象徴」としての立場、
「国事行為」 そして
自らの意志による「退位」について論考を連載している。

明仁天皇は、既に2010年に退位の意向を宮内庁に伝えており、
2015年の誕生日のメッセージで国民に伝えたいと言われたが、
宮内庁の打診を官邸が『握ぎり潰した』ので断念した。
と云う話しである。
【陛下は10年7月に参与会議で「80歳までは天皇を務める」
として退位の意向を示された。
81歳の誕生日を迎えた14年12月の記者会見では、
それまで言及していた「従来通りに公務を続ける」
という趣旨の発言がなくなった。】

明仁天皇の想いを実現しようと動いた風岡典之・前宮内庁長官。
官邸によって、御意向は握りつぶされ、風岡長官は更迭され
次の宮内庁長官(前・j次長)の横には
内閣危機管理監の西村泰彦氏が官邸から新・次長として送り込まれ
監視の目を光らせ身動きできない中で、
2017年は「新年の御言葉」を取りやめられた。
この「新年の御言葉取りやめ」は天皇の抵抗か?官邸の圧力か?

安倍政権は、天皇の『権威 Majesty』 は利用しながら自らの独裁に
障害となる場合には、抑え込もうと云う腹だろう。

伊藤博文も以下のように考えていたらしい。
【伊藤(博文)は退位を否定する理由として南北朝の混乱などを挙げている。
しかし国学院大学の坂本一登教授(日本政治史)は
「南北朝の混乱などは表向きの理由だ。
伊藤は近代国家を運用するために強大な天皇の権威を利用しつつ、
憲法によって天皇個人の意思は制限しようとした」と指摘する。
 ■「君権を制限」
 明治新政府は藩閥や、旧公家、天皇側近などのグループが存在し
一枚岩ではなかった。
財政を巡る議論で決着がつかず天皇に最後の判断を委ねたり、
天皇自身が政府への不満から、公式行事への参加を渋り
伊藤との面会を拒むなど、影響力を及ぼす場面もあった。】

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1-(1) 宮内庁長官 おことば案、
 昨秋官邸に 昨年末公表見送り

 毎日新聞【考・皇室 憲法と歩む】 - 2016年12月24日


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1-(2) 陛下「沖縄は未回復」 4.28主権式典前
 官邸・宮内庁「意向」巡りさや当て

 毎日新聞【考・皇室 憲法と歩む】 - 2016年12月24日


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2 退位否定は明治から 伊藤博文、政治的影響許さず
 毎日新聞【考・皇室 憲法と歩む】 - 2016年12月25日


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3 退位「第二の人間宣言」 
 会議経ないと結婚も認められず 選択の自由を希求

 毎日新聞【考・皇室 憲法と歩む】 - 2016年12月28日


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1-(1) 宮内庁長官 おことば案、
 昨秋官邸に 昨年末公表見送り

 毎日新聞【考・皇室 憲法と歩む】 - 2016年12月24日
 

 天皇陛下の退位の意向について、風岡典之・宮内庁長官(当時)が2015年秋、官邸に対して正式に伝えていたことが明らかになった。陛下のおことば原案を文書で示し、同年12月の天皇誕生日に合わせた記者会見での公表を打診したが、官邸との調整がつかず、公表が見送られた。

 原案は公表を前提とした文章形式になっており、象徴としての公務をどのように考えるかが記され、そうした公務は天皇しかできないため公務ができなくなれば退位するという内容。「摂政では対応できない」とする意向も盛り込まれていた。宮内庁は15年4月の参与らの集まる会議でおことば原案を提示しているが、この時は箇条書きで要点を記したものだった。宮内庁はこの時点では官邸に正式には伝えていないという。

 陛下は10年7月に参与会議で「80歳までは天皇を務める」として退位の意向を示された。81歳の誕生日を迎えた14年12月の記者会見では、それまで言及していた「従来通りに公務を続ける」という趣旨の発言がなくなった。宮内庁元幹部は「陛下の高齢が進んで緊急性が高まったため」と説明する。これを受け15年からおことば案の検討に入り、安全保障関連法の成立後の15年秋に官邸に伝えた。

 15年12月の公表が実現しなかった理由について宮内庁側は「宮内庁は12月で何も困らなかった。受け入れ側の態勢だ」として官邸側の事情と説明する。政権が16年夏の衆参同日選を検討していたことが背景にあると見られる。ただ、10年に陛下が意向を示してからしばらく動きがない。退位をめぐる有識者会議の関係者は「宮内庁がきちんと伝えなかった。陛下がSOSを発していたのに政治が受け止めていない」と批判する。

 内閣法制局の関係者は、宮内庁がおことば原案を官邸に正式提示する以前、内閣法制局側に水面下で相談があったと明かす。通常は、宮内庁が官邸に伝えた後に官邸が法制局と協議する。この関係者は「安倍晋三首相の支持層につぶされてしまうことを恐れ、正面から持ち込めなかったのだろう」と指摘する。

 小泉政権時代の女性・女系天皇の議論では、宮内庁と官邸の関係者が非公式に集まり勉強会を開いていたが、今回はなかった。首相を支持する保守派は女性・女系天皇に反対し、退位反対も多い。宮内庁幹部は「小泉(純一郎)さんと安倍さんでは状況が違う」と述べ、安倍政権との関係が背景にあったと示唆した。

   ◇

 天皇は民主主義のなかで、どのように憲法とともに歩んできたのか。その役割を考える。

Copyright 毎日新聞 



1-(2) 陛下「沖縄は未回復」 4.28主権式典前
 官邸・宮内庁「意向」巡りさや当て

 毎日新聞【考・皇室 憲法と歩む】 - 2016年12月24日
 

 サンフランシスコ講和条約が発効して61年の2013年4月28日、政府主催の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が東京・永田町の憲政記念館で開かれた。安倍晋三首相、衆参両院議長、最高裁長官の三権の長と、天皇、皇后両陛下が出席。三権の長は式辞とあいさつを述べた。陛下のおことばはなかった。

 陛下は、式典への出席を求める政府側の事前説明に対し、「その当時、沖縄の主権はまだ回復されていません」と指摘されていた。沖縄の本土復帰は1972年で、講和条約発効当時はまだ米国の占領下にあった。

 宮内庁の元幹部は「歴史的な事実を述べただけだが、陛下が政府の説明に指摘を加えることは非常に珍しい」と説明する。憲法で天皇は政治的権能を持たないと規定され、天皇の国事行為は「内閣の助言と承認に基づく」とされる。式典出席などの公的行為も内閣が責任を負う。元幹部は「政府の助言には象徴天皇として従わざるを得ない。国民統合の象徴として沖縄のことを常に案じている陛下にとって、苦渋の思いだった」と打ち明ける。

 陛下は皇太子時代に訪れた沖縄で火炎瓶を投げられた。関係者は「陛下は皇太子時代から沖縄問題を系統的に勉強している」と話す。陛下としては政治的な行為とならないぎりぎりの範囲で指摘したとみられる。

 沖縄では式典に対する抗議集会が開かれた。野党からは、政治的見解が割れる式典への出席は天皇の政治利用だとの批判も出た。菅義偉官房長官は13年4月19日の記者会見で「沖縄を含めたわが国の未来を切り開く決意が大事という趣旨の式典だから、両陛下のご臨席は自然なことだ」と反論した。

 ■解散権の制約警戒

 陛下はおことばを公表する直前の7月21日、恒久的な制度による退位を望む考えを学友の明石元紹(もとつぐ)氏に打ち明けている。明石氏は退位問題を担当する杉田和博官房副長官に陛下の考えを伝えたが、杉田氏の答えは「恒久法ではどうしても国会をまたがないといけないから、難しくて困りますなあ」というものだった。

 官邸は一代限りの特別立法で対応する方針だ。杉田氏が「国会をまたぐ」ことを理由に皇室典範改正(恒久法)を否定するのは、法整備に時間がかかれば、首相の解散権を制約しかねないという懸念があるためだ。

 官邸と宮内庁で食い違うのは退位問題に限ったことではない。安倍政権では13年9月にあった五輪招致に関わる国際オリンピック委員会(IOC)総会への高円宮妃久子さまの出席を巡って、菅官房長官と風岡典之宮内庁長官が激しくやりあった。風岡長官が記者会見で「天皇、皇后両陛下もご案じになっているのではないか」と出席を要請した官邸を批判。菅氏は記者会見で「両陛下の思いを推測して言及したことは非常に違和感を感じる」と反論した。

 官邸は宮内庁が「陛下の意向」を盾に異を唱えることに敏感に反応する。選挙という民主主義の手続きを経ている首相の行為が、そうした手続きを経ない「陛下の意向」によって制約されることへの警戒感がある。

 今年の春、皇居・乾通りの一般公開を巡っても、官邸と宮内庁は対立した。観光戦略で国有施設の一般公開を進める菅氏は、16年春、公開期間を5日間から10日間に拡大するよう宮内庁に打診。しかし同庁は「例年通りしかできない」と拒否した。菅氏が再度要請し、同庁は妥協案として1週間の公開をのんだ。ただし桜の開花時期が遅れたためさらに3日間延長し、結局は10日間公開した。

 ■宮内庁長官を更迭

 官邸幹部は「陛下の意向を持ち出して、できないという宮内庁はおかしい組織だ」と怒る。この時期、退位問題はすでに官邸に正式に伝えられていた。退位問題を背景に、主導権がどちらにあるかは譲れない問題になっていた。

 風岡長官は来年3月まで務めるとみられていたが、9月に退官した。宮内庁次長が長官となり、次長ポストには内閣危機管理監の西村泰彦氏が送り込まれた。官邸と宮内庁の双方を経験したある官僚は「風岡さんは官邸とうまくやりとりができず更迭された」と語る。

 毎日新聞は12月、明石氏の証言を基に、恒久的な制度を望む陛下の考えを報じた。政府関係者は「政府内では宮内庁が陛下の意向を使って陰謀をたくらんだことになっている」と話す。宮内庁関係者は「官邸は西村さんを次長に送り込んだのに、宮内庁がまた『陛下の意向』を使って仕掛けてきたと考えている。風岡さんに続いて誰かが更迭される話が飛び交っている」と語った。

Copyright 毎日新聞



2 退位否定は明治から 伊藤博文、政治的影響許さず
 毎日新聞【考・皇室 憲法と歩む】 - 2016年12月25日
 

「退位は国の安定を害する」(1952年、吉田茂首相)。「ご自分の発意での退位はその地位と矛盾する」(59年、林修三法制局長官)。「天皇の地位を安定させる観点から退位の制度を認めない」(2001年、羽毛田(はけた)信吾宮内庁次長)

 退位を巡る有識者会議のヒアリングでは大原康男国学院大名誉教授が「政府答弁は退位否定で一貫している」と指摘した。退位の自由を認めない考えは明治憲法制定時にさかのぼる。専門家からは「明治に過去の弊害に鑑みて一つの原則を立てた意義は大きい」(大原氏)、「明治の先人が心を砕いて考えた。付け足すなら慎重であってほしい」(ジャーナリストの桜井よしこ氏)と、明治の制度を評価する声が相次いだ。

 ■憲法下に天皇

 1887(明治20)年3月20日、初代首相を務めた伊藤博文は東京・高輪の私邸で、大日本帝国憲法の制定にも携わる法制官僚の井上毅(こわし)や伊東巳代治(みよじ)、華族の柳原前光(さきみつ)を集め、皇室典範制定について話し合った。

 会議は井上らが作った案を条文ごとに解説し、伊藤の意見を求める形で進んだ。様子が変わるのは第12条の案にさしかかった場面だ。「精神または身体に不治の重患ある時は、元老院にはかり、天皇の位を譲る事ができる」と譲位規定が盛り込まれていた。伊藤は「一度皇位に就いた以上、自分の意思で退位することは道理に合わない」と切り出す。さらに、重病などの場合には「退位されるのではなく、摂政を置けばいい」として、規定の削除を要求した。井上は、ドイツの法学者の説を持ち出し「天皇といえども人類だ。本人が求めていない時は、退位できるようにすべきだ」と反論したが、伊藤は「一学者の説に過ぎない」と取り合わなかった。

 伊藤は退位を否定する理由として南北朝の混乱などを挙げている。しかし国学院大学の坂本一登教授(日本政治史)は「南北朝の混乱などは表向きの理由だ。伊藤は近代国家を運用するために強大な天皇の権威を利用しつつ、憲法によって天皇個人の意思は制限しようとした」と指摘する。

 ■「君権を制限」

 明治新政府は藩閥や、旧公家、天皇側近などのグループが存在し一枚岩ではなかった。財政を巡る議論で決着がつかず天皇に最後の判断を委ねたり、天皇自身が政府への不満から、公式行事への参加を渋り伊藤との面会を拒むなど、影響力を及ぼす場面もあった。

 1882年から約1年間、憲法調査のためヨーロッパに滞在した伊藤は、君主に強い権力を認めながら、国会や政府の制限も受けるドイツの制度を学び「立憲君主の国では、立法、行政の組織は、組織規律に従って運用されている」と、書き残している。帰国後、憲法や皇室典範を制定する際には、ドイツ型の立憲君主像を取り入れて天皇の政治的影響力を抑えることを狙い、枢密院での審議で「憲法を創設するの精神は、第一君権を制限し、第二臣民の権利を保護するにあり」と述べている。その方針を貫くには、退位であっても天皇の自由意思を容認することはできなかった。坂本教授は「天皇と時の内閣の考えが一致するとは限らない。その時に天皇が譲位の意向を漏らせば大きな政治的波紋が生じる懸念があった」と、伊藤の意図を読み取る。

 伊藤の影響を受けて明治天皇は次第に立憲君主として振る舞うようになった。昭和天皇も明治天皇を理想像として常に立憲君主であろうと努めた。

陛下、新天皇像探る
 ■役目を再定義

 現在の陛下は「象徴としての役割を果たす」との思いを抱かれ、被災地訪問や慰霊の旅を重ねている。昭和天皇が明治天皇を範として実践した厳格な立憲君主像から一歩踏み出した新しい天皇像をつくろうとし、国民の広い支持を受けている。

 しかし、憲法を厳格に解釈する立場からは、憲法にない天皇のあり方や影響力が拡大することへの懸念も出ている。

 ヒアリングで退位を容認する意見を述べた高橋和之・東京大名誉教授は「心理的に多くの国民が陛下を支持している。将来の天皇が、政治に不満があって退位すると言ったら、ものすごい政治的圧力になる」と分析する。

 横田耕一・九州大名誉教授は「憲法にない天皇の公的行為や、天皇の意向による退位を認めることは、将来天皇の活動が無制限に広がり、歯止めがかからなくなったり、政治に影響したりする可能性がある」と指摘し、「今の議論では、天皇自身をはじめ、祭祀(さいし)や伝統を重んじる層、被災地訪問に期待する人たちなど、それぞれが望ましい天皇像を語っている。憲法に基づいた天皇のあり方を考えるべきだ」と話す。

 近代日本が退位を否定してきたのは、天皇の自由意思を可能な限り封じ込めることが立憲政治に不可欠だったからだ。今回の退位を巡る議論は、現実に政治日程に影響を及ぼしている。

 年明けの衆院解散が取りざたされた今秋、ある自民党中堅議員は「陛下の問題をしっかりやらないうちは解散という話にはならない」と話した。別の自民議員は「代替わりの事務作業が大変になるから、その時期に衆院選を避けるという話がある」と語った。安倍晋三首相も退位問題を念頭に置いた政権運営を余儀なくされている。

Copyright 毎日新聞 



3 退位「第二の人間宣言」 
 会議経ないと結婚も認められず 選択の自由を希求

 毎日新聞【考・皇室 憲法と歩む】 - 2016年12月28日
 

 今年3月末、東京都の霞が関ビル34階にある霞会館の一室であった学習院初等科のクラス会に、天皇陛下が出席された。

 参加した約20人は戦時中、栃木県日光市への疎開を経験し、戦後も中等科や高等科などで机を並べた間柄だ。多くは静かな生活を送るが、今もさまざまな公務を果たしている陛下の都合がつかず、初等科だけのクラス会に陛下が参加するのは即位後、初めてだった。

 旧友同士で水入らずの時間を過ごそうと、会場には参加者の家族も入れず、常に陛下の身の回りにいる宮内庁職員や護衛官にも外で待機してもらった。陛下は、三つのテーブルごとに用意された席を移りながら、久しぶりに旧友と語らった後、満足そうに「こういうことが続けられたらいいですね」と話した。参加した明石元紹(もとつぐ)氏(82)は「お立場は尊重するけれど、我々にとっては陛下も生身の人間以外の何ものでもないんです」と話す。

 ■縛られる人権

 1946年1月1日、戦後復興に向けて国民の団結と平和国家の建設を呼び掛ける昭和天皇の詔書が発表された。天皇と国民の結びつきについて「天皇をもって現御神(あきつみかみ)とし、日本国民をもって他の民族に優越せる民族にして、世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基づくものにもあらず」と述べ、これまでの「神」としての天皇を否定する内容から「人間宣言」として知られる。

 11月には日本国憲法が公布され、天皇は「国民の総意に基づく統合の象徴」に定められた。しかし、天皇が世襲による特別な身分であることが引き継がれた結果、基本的人権の尊重と法の下の平等を掲げる現憲法の下で、異質な存在となった。

 天皇や皇族の身分は憲法や皇室典範で定められ、天皇の退位や、皇太子、皇太孫の皇籍離脱は認められない。それ以外の皇族も皇籍を離れるには、皇族の代表者や首相、最高裁長官などでつくる皇室会議の議決が必要だ。男性皇族の結婚にも、皇室会議を経ることが求められる。

 公私の活動にも制約がある。象徴としての地位や「政治的権能を有しない」という憲法の規定から、政治に関連する事柄については、表現や言論の自由にも制約が掛かり、政治活動も認められない。

 公務や警備などの都合上、天皇や皇太子の住まいは皇居や赤坂御用地などとなり、居住の自由も限られる。地位に矛盾しない限り職業に就くことは可能とされるが、皇位継承順位が高いほど公務も多く、即位の拒否も認められていないため、職業選択の自由にも制約がある。

 ■世襲への言及

 皇室に生まれれば本人の意思に関わらず、皇族としての人生を歩むことになるが、陛下や皇族が自身の立場について言及したこともある。学習院初等科以来、陛下の同級生だった橋本明氏(83)は、高等科の社会の授業で憲法が話題に上ったとき、隣の席で陛下がぽつりと「世襲の職業っていうのは嫌なものだね」と漏らしたのを覚えている。驚いて何も答えられなかったが、「当時から選択の自由を持った天皇像を考えておられたのだろうか」とおもんぱかる。

 行事への出席など皇族としての務めの一方で、福祉団体の運営にも関わっていた三笠宮家の寛仁さまは82年、「皇族の身分を離れて、身障者問題に打ち込みたい」と宮内庁に皇籍離脱を申し出た。周囲の説得を受けて撤回したが、国会なども巻き込み大きな議論を呼んだ。

旧友「思い聞いて」
 政府はこれまでの国会答弁で、天皇の一般的な基本的人権を認めつつ、世襲制による特例や象徴としての地位に基づき、必要最小限の制約は憲法上容認される、との見解を示している。ただ、皇室制度に詳しい園部逸夫・元最高裁判事は「社会が高齢化している中で、生身の人間を象徴としている以上、陛下のご意向に対しては憲法論ではなく、人道上の配慮から向き合うべきだ」と話す。さらに「社会の変化に対し皇室だけが止まったままでは、将来、皇籍を離れたいと考える皇族や、皇后などの立場で皇室に入るのをためらう人が出て、皇室の安定的継承にも差し支える」と懸念する。

 ■国民理解願い

 学習院初等科のクラス会から約4カ月後の今年8月、退位の意向がにじむ陛下のおことばが公表された。明石氏は「陛下は生まれながらにして役割や立場を背負ってきた。唯一、人間として希望したのは、民間から迎えた皇后さまとの結婚と、子供を手元で育てることだけだった」と振り返る。そして退位の意向について「人間として最後の大事なところでの思い。同じ世代を生きた人間として、社会にその声を聞いてほしい」と訴える。

 昭和天皇の人間宣言は、国家の再生を目指し、団結と奮起を促す天皇からの一方的な呼び掛けだった。だが今回のおことばで陛下は、2度の外科手術や高齢による体力低下にも触れ「既に80を越え、全身全霊をもって象徴の務めを果たすことが、難しくなるのではないかと案じています」と、高齢化社会で誰もが抱える不安を吐露し、「国民の理解を得られることを、切に願っています」と結んだ。

 陛下のおことばは、一人の人間としての自身の存在を訴え、国民と共に新たな天皇像を作り上げようとする「第二の人間宣言」なのかもしれない。

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